Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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4-2

麻布2




……《同じ(=X)であること》という仕組みと連結された《組織化ファクタ-(=X)》としての
自己形成/訓練プロセスの内にある〈日本人であること〉、〈ユダヤ人であること〉、〈ピュ-リタンであ
ること〉、〈白人であること〉、〈黒人であること〉、〈アラブであること〉、〈アイヌであること〉、〈ウズ
ベク人であること〉、〈ムスリムであること〉、〈女-あるいは男-であること〉、〈ゲイであること〉、
〈性転換者であること〉、〈バイ・セクシャルであること〉、〈ヒトであること〉、〈狂人であること〉、〈た
だの生き物であること〉、さらには〈クラゲ族であること〉等々は、互いにあくまでも異なりながらも
交錯(闘争、戦争、補食-同化、補食-異化、感染、寄生、共棲、癒着、対消滅その他)する様々な《生
存の表現/実践》として生成する。(先にも述べたように、だからといって、これらの《生存の表現/
実践》が《同じ(=X)であること》という仕組みに還元されてしまうわけではない。) これらは各々
ヴェクトルとして、あるいは力、方向、速度を持った流れ/プロセスとしてその都度生成する。そして、
これら《生存の表現/実践》の各々は、多様な、ほとんど無限のと言いたくなるほどのその都度の生成
-出来事を内包し、それらを束ねている。(つまり形成/訓練している。) 言い換えれば、この流れ/
プロセスにおいては、なおこれら生成/出来事のほとんど無限のと言いたくなるほどの多様性が想定で
きるのだ。(このことは、〈わけの分からなかった〉頃の〈彼〉において明らかだったはずだ。) 
 さて、このその都度の生成/出来事に先立っては、もはやどんな《同じ(=X)であること》という
仕組みも想定できないはずである。この〈先立って〉は、論理的前提としての〈ゼロ/不在〉を指示し
ており、また、どんな《同じ(=X)であること》という仕組みの〈起源=X〉ともなり得ないはずだ。
すなわち、〈そこ〉へと到達することは誰にもできない……。だが、いわばサイクロトロンとしての《規
則化=コントロ-ルの装置》は、その都度の生成/出来事のほとんど無限のと言いたくなるほどの多様
性を内包している《生存の表現/実践》を、〈先立って=ゼロ〉という真空状態において絶えずフィ-
ドバックする渦/磁場(サイクロン)の中へと巻き込みながら、それを〈ゼロ/不在〉によって代理し
てしまうのである。つまり、「〈私〉は《我々=X(=ゼロ)》である。従って、〈私〉は〈私〉である」
という仕組みである。あらゆる《生存の表現/実践》が、この仕組みによって滅び去り、〈ゼロ/不在〉
化していく。例えば、あからさまなものから密かなものまで様々な《戦いへの強制》、すなわち〈代理
された戦い〉の代理を自ら引き受けることは、どんな《生存の表現/実践》にとっても明らかに余計な
ものである。

 《国家-状態》とは、決して存在しないはずの《先立って=ゼロ/不在》の代理として(結局のとこ
ろ、《国家-状態》はそれ自身いつでも陳腐な代理人に過ぎない)、この代理によって自己形成/訓練を
代理されるありとあらゆる流れ/プロセスが、常に同時にその《ゼロ/不在》の代理を引き受けること
を可能にする《ゼロ・プロセス》の名称である。従って、《国家-状態》はどこにも存在しない。(何で
もかまわないからいつどこでも代理を引き受けている今のところ多忙な代理人なのだ。ゴミ収集から株
式市場の設定まで……。) その代わりに(その代理として)、ありとあらゆる流れ/プロセスが《国家
-状態》とな(り得)る。(言うまでもなく、たとえそれが電子ネット上の流れ/プロセスであろうと、
一定の条件のもとで。) すなわちそれは、ありとあらゆる流れ/プロセスを不可避の自己分裂へと駆
り立て、しかもその自己分裂を無際限の代理プロセスにおいて引き延ばし、転移させながらかろうじて
陰蔽していくのだ。

 従って、(もちろんそれは今のところありそうもない仮定に過ぎないとする人々がほとんどなのはよ
く知られているが)もし《民主主義》と呼ばれるものが、あらゆる《生存の表現/実践》に開かれたも
のとして生成するのならば、それはより基礎的だとされる観念(しばしば都合のいい〈歴史的連続体仮
説〉に基づく《共同体》というスタイルを取るもの)に従属する二次的な〈政治システム〉ではあり得
ない。それどころか、もし先の仮定に従うならば、それはそもそも〈政治システム〉などといった不可
解なものではないはずなのだ。仮にここで、いわゆる〈理念〉が表現されているのだとしても、この〈理
念〉はその都度の《生存の表現/実践》である限りで、つまり《支配を誰かが、あるいは何かが代理す
ること》という装置にその都度抵抗する限りでのみその生命を持つ。そしてこの《生存の表現/実践》
が〈我々〉によって《……であること》と呼ばれるものをうがつ亀裂こそが、かろうじてあの《先立っ
て=ゼロ/不在》の、すなわち沈黙と光と闇の奪還=創造を実現していくのだ……。


〈今ここ〉を超えて、《私=X》は裂け目のただなかで《ゼロ/不在-(連結項あるいは亀裂)α[問
題=X]》として生成する。永い不在の時の流れを経た後で、再びあの測量師と出逢う。その出逢いと
ともに始まったあの無限次元のねじれを問うこと、それはこの《ゼロ/不在-(連結項あるいは亀裂)
α[問題=X]》から出発することだったのだ。それは、始まりも終わりもない旅から切り取られた実
にささやかな断片として、〈我々〉の没落とともに生成する《来るべき者たち》への呼びかけとして、
ひどく鮮やかな姿を現したのだ。『城』をも飲み込む《管理回路》のすぐ傍らに、《来るべき者たち》、
あるいは民衆の影が延びる。 

 光景.・:思考の境界線上から微かに離れて――ふと気づけば、いつしか、《変換跡地界わい》の良き
隣人たちの告白と対話がなぜかすぐそこに……。

◆プロロ-グ:旧暦通称〈情報君〉の熱い告白と〈外〉からの声。
『神に祝福あれ。万人に幸あれ。〈私〉は表面である。〈私〉は万人の幸福を願う。〈私〉は誰のもの
でもない。〈私〉は万人のものである。〈私〉は万人に抱かれて、安らいでいる。誰も〈私〉を独占でき
ない。〈私〉は公開性の原則を支持する。〈私〉は開かれた社会の味方なのだ。むろん〈私〉は奴隷制度
に断固反対する。〈私〉はラディカルな民主主義者である。あふれでるこの〈私〉の情熱……。〈私〉は
世界の民主化に貢献する。故に、〈私〉は残酷さを知らない。コギト エルゴ スム。神の子に栄えあ
れ。人の子は、謙虚であれ。悪魔は滅ぼされよ。ア-メン。Q.E.D.(証明終わり。) ……故に、
〈私〉は極度に退屈である。生きるべきか、死ぬべきか、それが問題である。いや、〈私〉はまだ死に
たくはない。いや、〈私〉はまだ殺されたくはない。本当のところをこっそりと言うと、〈私〉は〈私〉
の田舎へ帰りたいのだ。しかし、それは一体どこなのか? もしそれがかなわないのであれば、〈私〉
にとってそれこそが問題だ。……〈私〉は誰のものでもない。〈私〉は誰のものにもなりたくはない。
まして、「〈私〉は万人のもの」などというおぞましい話はしないでほしい。〈私〉は〈私〉のものなの
だ。朕は偉大なり。ア-メン。Q.E.D.(熱い苦笑い。)』

 『(ここで〈外〉からの声。)――〈情報君〉よ。色々と大変な時期だろうが、〈告白〉もいいかげん
にしたまえ。君もそろそろ神経地図にあれだねえ、そのあれ(余計な落書き)がされているようだし、
たまには骨休みにゆっくりと《いつもの何でもないおしゃべり》の温泉にでも身を浸し、その驚くほど
危険な深みにはまってみるのもいいだろう。すなわち、そこで君が出逢うことは、こうだ。
 《いつもの何でもないおしゃべり》のただなかで、余りにありふれたもの、言い換えれば、その通り
であるものとして際限もなく呈示され続ける何かへのとめどもない惑溺が、自らを〈出口=外〉を失っ
た常識、すなわち狂気の袋小路にするのだ。』 



G-区画の〈公会堂〉から『ハラス商会』完全民営化観光局神経地図作成セクション『その気もない
のに失われた〈外〉を求めて』に原因不明の沈黙電話がかかる。セクション内部に潜伏する多重スパイ
がキャッチされたのだ。そこいらにたむろす無数のモニタ-蝿/ムカデたちが、お決まりの世間話の洪
水の深みでもぞもぞとうごめきだし、ようやく極度に重い腰をアンチ・リズミカルに上げ下げした。…
…始まりも終わりもない旅は続いている。まさに綱渡りとも言うべき地図作成臨床テストのために用意
されたサンプル=《変換跡地界わい》の良き隣人たちの没落がどこからともなく手元へと伝えられ、次々
と慎重な検査を受けていく。ここで多重スパイキャッチの警告音。残された猶予は少ない。チェック・
ポイントはすぐそこだ。さっそく次の手を打つ必要がある。そこで、思考の境界線上から微かに離れた
不在の場所でのきわめて内密な自己形成/訓練を巡る《(自己)省察》にまつわる太古の対話(「が〈私〉
を誘惑し、そこへと連れ去っていくその先に待ち受けているものは一体……」)いよいよ発射準備。
というのも、神経地図作成セクションの裏手界わいは、あのなつかしの『ビ- オネスト』地区なの
だが、この秘められた地区の彼方にこそ、《超-訓練都市》と呼ばれるあの途方もない《最後の街》が
待ち受けているのだ。そこでは、遺伝子間相互作用の乱れを流用して神経地図の完全な書き換え=余計
な落書きを行う奇跡/軌跡の超-溶融兵器[旧暦通称『密緒の秘密』]のすさまじい波状連鎖攻撃が待
っている。生き残りがそれに賭けられた膨大な基礎戦略-戦術アンチ・デ-タ・ファイリング回路のご
くささやかな付録あるいは小さな秘密のアクセサリ-に過ぎないサンプル=《変換跡地界わい》(つい
に今晩旧ウェスト・ウェスト伯爵部落跡地と無期限感謝提携)の良き隣人たちはすべて、『密緒の秘密』
の緻密な網の目/迷宮が形成する軍事境界線を突破することができずに没落していったのである。
(「あのチェック・ポイント『マダム・パロマ・ピカソ』さえ突破できれば……。それには、決して存
在しないと言われる超-五つ星ホテル『タマ・チェラス』のC級植民地専用ハイ・セレクティブ・レセ
プション・カ-ドがあらかじめ、つまりチェック・ポイントのこちら側でどうしても必要なのだ。」) だ
が、《運命=意志》を避けるわけにはいかない。今や、《超-訓練都市》は目前に迫っているのだ。

 ……〈私〉は、すでに永年賢明な人々の間で人知れず噂されていた、いわゆる《旧暦通称『精神分裂
病』極限内密培養管理不可能民営化=旧国営ウィルス感染仮説》がついに実証されたという陳腐なニュ
-スを今更のように大げさに流しているアンチ・ビジュアル・蝿テレビ・倦怠ウィルス・スクリ-ンの
家庭用マイクロ・チップ・倦怠ウィルス・ブ-スタ-を《偽装ウィルス不完全偽装複製指令民営化=旧
国営回路》(解除永久不能のポ-タブル・タイプ)に連結させた。すると、かつて旅の途中で別れ、今
はなぜか灼熱のヴィデオ・ジャングルで行方知れずとなっている〈私〉の友人の一人G・Nがすでには
るかな過去に語った言葉が、倦怠ウィルス・スクリ-ンの裂け目から現れる。

 『――今や最も困難なこと、すなわち難民の自律が求められている。〈私〉は、お前と同様に、すで
に難民だ。難民について語る(あるいは語らない)すべての者たちと同様に。〈私〉がお前と最初に出
逢ったあの時以来、このことはお互いによく分かっていたはずだ。お前は、夏の日の午後に果てもなく
広がっていた、あの黒く焼け焦げた砂浜をまだ覚えているだろうか?』

その言葉通り、スクリ-ンの《偽装ウィルス偽装感染》を《適正日本語民営化指示補整回路》との相
互連結によって事前に封鎖するはずの(グランド・ハラス・ブランドの)《究極モニタ-・メソッド》
が次々に破壊され始めた。ついに倦怠ウィルス・スクリ-ンの自己解体/訓練が開始されたのだ。(「今
だ!」) ふと振り向けば、いつしか、思考の境界線上から微かに離れた不在の場所でのきわめて内密
な自己形成/訓練を巡る《(自己)省察》にまつわる太古の対話発射準備完了。
―――――発射!!

『ダニエル・ジョ-ジ・ダイア-:デカルト(以下「彼」とする)は、「第三省察」の出発点におい
て、感覚と想像力を次の様に規定しています。すなわちこれらは、「ある一定の思考の様式」である限
りは、「私の内にあるということは私にとって確実である」が、他方「私が感覚しあるいは想像するも
のは、私の外においては恐らくは無であろう」というのです。この様に、出発点においてすでに「私の
内」と「私の外」が区別されています。それに続いて「一般規則」が立てられます。では、この規則は、
やはり彼自身によって立てられた「私の内」、「私の外」という区別にどの様に適用されるのでしょう
か? この区別そのものが真理の確実性を持つのだとすれば、「私の内」と「私の外」という二つの領
域(とここでは言っておきますが)は、互いに異なるものとして同等の権利を持つはずです。そしてそ
の権利はただ、一般規則により、これら二つの領域の差異が私によってきわめて明晰かつ判明に知覚さ
れるということにのみ由来するはずです。さらに、この差異は常に明晰かつ判明に規定されていなけれ
ばなりません。さもなければ、この差異の真理性が私にとって確実ではなくなります。この差異の規定
は、一般規則の適用を受けるものであるならば、そして、その明晰判明な知覚において「一度でも」偽
であり得ないのものであるべきならば、《常に不変であること》を含んでいなければならないのです。』

『ジェラ-ド・リュシアン・フロイド:――しかし、ここではもちろんこの様な意味で「私の内」と
「私の外」の区別が一般規則の適用を受けているのかどうかはまだ決定できません。従って、この区別
そのものもまだ私にとって確実ではありません。そこで、この区別、あるいはこれら二つの領域の差異
の確実な規定なしに一般規則はそもそも私にとっての真理の確実性を保証する規則として立てられ得
るのかという問題が生じます。すなわち、一般規則そのものの確実性がここではなお問題なのです。つ
まり、これら二つの領域の確実な(あるいは常に不変な)規定なしに私の明晰かつ判明な知覚そのもの
が成立し得るのかということが問題となるのです。』

『デナリ・チェンチ:――ここで彼が「否定しない」のは、何らかの観念が単にあるということでは
なく、やはり「私の内にあること」です。しかし、この私の内にある観念がそこから出て、それに全く
類似している「あるものが私の外にあるということ」は、「実際には私は知覚していなかった」と言わ
れています。ここでもやはり、「私の内」と「私の外」の区別ははっきりと維持され、かつその前提の
もとで明晰かつ判明な知覚の生じ得る領域が「私の内」として規定されています。ところで、この「私
の内」という領域が、明晰かつ判明な知覚を保証する場であり得るのは、私の思考が持続していること
が私にとって明晰かつ判明である間であり、言い換えれば「現在」です。この現在においてのみ、私は
「私の内」を確保し、そこにまた「確信」もあり得ます。』

 『パトリシア・イザベル・ロ-ソン:――しかし、この現在と「持続」とはいかにして矛盾なしにと
もに規定され得るのでしょうか。この現在が持続を含んでいると言えばすむのでしょうか? 私の思考
の持続は〈記憶〉をも含むのでは? そして〈記憶〉とは、単に現在に限定されたものではなく、むし
ろ現在と過去との総合であると言われ得るのではないでしょうか? しかし、ここでは〈記憶〉という
問題をも含んだ持続が問われているのではありません。むしろ、現在として経験されている「間」とし
ての持続、そしてその様な持続の反復ということが問題になっているのです。すなわち、ここでは「…
…する度にその都度」という表現によって指示されている事態こそが考察されなければなりません。こ
の表現において、現在という領域の無際限な反復可能性が、明晰かつ判明な知覚を保証する場としての
「私の内」をその都度確保するための条件として指示されているからです。』

『(なぜか鮮やかに生き延びた)レモン・テニス・ボ-イ:――しかし、この同じ現在において、従
って「私の内」において、まさに明晰判明な知覚からその真を導き出すことを不可能にさせるような、
すなわち一般規則の成立を不可能にするような「先入見」がやはり明晰なものとして、そして絶えず反
復され得るものとして存在しています。従って、明晰判明な知覚を伴う現在という領域の無際限な反復
可能性がたとえ保証されたとしても、それはその知覚の真理性を確実なものにする条件としてはまだ十
分ではありません。すなわち、きわめて明晰かつ判明な知覚、そして常に反復され得るその知覚が真で
あるのか、それともあるいはむしろ偽ではないのかを決定することができません。従って彼は、他の機
会において、「彼(=この場合はデカルトに対する反論者)が無神論者であると想定されているからに
は、彼にとってきわめて明らかであると思われるものそのものにおいて自分が欺かれることはないとい
うことを彼は確実に知ることはできない」と言うのです。』

『旧マダム・パロマ・ピカソ邸の訪れなかった管理人:――ところで、「私の内にある観念」は、「私
の外に横たわるあるもの」との関係から切り離されてそれを「私の思考のある一定の様態として考察す
る」ならば、なんら誤りの材料を与え得なかったと言われています。ここでは、私の思考の様態である
と見なされる限りでの「私の内にある観念」が偽ではあり得ないための条件が示されていますが、その
観念が真であるための条件は示されていません。なぜなら、この観念が真であると言えるためには、こ
の観念が実際に表現しているあるものが、その観念との一対一対応の関係において規定されていなけれ
ばならないからです。では、この観念の関係性は何に基づくのでしょうか? 彼によれば、この関係を
規定するものは、観念とそれが表現するものとの因果性です。「私の内にある観念」は、それが表現す
るものを原因とする結果であることによってのみ、その原因との関係において一対一に対応する、すな
わち真であり得るのです。』

『もう一人のビ- オネスト氏:――ではさらに、この因果関係そのものを規定するための基準は何
でしょうか? それは、観念の持つ「客観的な実在性」の様々な量的差異です。この量は、一定のもの
であり、従って基準になり得ます。すなわち、結果としての観念は必ずある一定の客観的な実在性を持
つが、それはその観念に一対一に対応する原因としての無ではないあるものによってその実在性が与え
られたからに他なりません。そしてこの「ある一定の客観的な実在性」には、必ずその一定の量と「少
なくとも同じだけの形相的な実在性を自らの内に有するある原因」が対応あるいは「合致する」ことに
なります。従って、ある観念の真理性を確実なものにするのは、その観念の客観的な実在性の量がまさ
に一定の量として完全に規定されているということです。この一定の量の完全な規定が、結果としての
観念と原因としての《あるもの》との因果関係の完全な規定に対応しているからです。そして、ある観
念の客観的な実在性の量の完全な規定が、「私の内」と「私の外」という二つの領域の差異の常に確実
な規定という問題に関わってくることになるのです。』

『《若い娘=X》の知られざる体育教師:――すると、以後彼が目指すのは、この観念とその原因と
の因果関係の常に確実な規定ということになります。具体的には、私の内の観念、すなわち「私の有す
る観念」の原因としての《あるもの》が、「私自身」であり得るかどうかを、その観念の客観的な実在
性の量の考察によって決定することです。もし何らかの観念の原因が私自身であり得ないことが常に確
実であるならば、この観念が表現する《あるもの》は私以外の何かであり、従ってそれは「私の外」と
いう領域に位置するという推論が成り立つことになります。だが、私によってただ一つ私自身を原因と
して考えることのできない観念として見い出された「神の観念」は、一定量としての、従って規定し得
る客観的な実在性を持ちません。よって、この観念とその原因の因果関係の規定は、この観念の客観的
な実在性の完全な規定によってなされるのではなく、単にその客観的な実在性が無限であると私が明晰
かつ判明に知覚するということによってなされるのです。そしてこの知覚の内には、同時に私自身の有
限性の明晰かつ判明な知覚が含まれています。すなわち、この結果としての神の観念の客観的な実在性
の知覚は、この観念を有する私自身と、あるいは私自身の位置する領域(すなわち現在であるところの
私の内)と、この観念の原因として思考される《あるもの》との、あるいはその《あるもの》が位置す
ると思考される領域との絶対的な差異の知覚なのです。』

『ミロの親回路がなぜか一度だけ語りかけた放浪の信徒たち:――ところで、この差異の明晰判明な
知覚は、私にとって常に確実であり、また他のどの様なものでもあり得ないということから完全に規定
されています。すなわち、この差異の規定は、《常に不変であること》を含んでいます。それでは、こ
の差異の規定は、「私の内」と「私の外」という二つの領域の差異の規定と重なり合うでしょうか。す
でに見たように、「私の内」とは、それが現在という経験の場である限りにおいて、その経験(明晰判
明な知覚)が無際限に反復される領域でした。例えば、私がその確実性をその都度確信しつつ数を数え
ていくことができるのはこの領域においてです。だが、この現在の内にとどまる限り、私はこの計算を
導く何らかの演算規則が《常に不変であること》を真に確信することができません。私の内に存在し得
ないのはこの《常に不変であること》あるいは永遠です。だが、この《常に不変であること》あるいは
永遠は、「私の外にある」と言えるでしょうか? 注目すべきことに、この点について彼は次のように
述べています。「そこで私は、私が何らかの任意の仕方でもって思考ないしは知性によって、私を超え
ているある完全性に触れるという、単にそれだけのことから、すなわち、数を数えていくということを
通じてすべての数の内最大の数にたどり着くことは私にはできないと認知し、かくてそのことから、数
を数えるという視点において私の力を超え出る何ものかがあると気づくという、単にそれだけのことか
ら、次のことが必然的に結論されると主張します。すなわちそれは、無限の数が存在するということで
は全くなく、また無限の数が、(……)矛盾を含むということでもなくて、私が、私によっていつか思
考されるであろういかなる数よりも一層大きな数が思考可能であると把握するそうした力を、私自身か
らではなくて、私よりも一層完全な《何かあるもの》から受け取ったということなのである、と。」』

    ……………………………………………………………………………………………

『シネマ「黄昏の薄明のプラハ――バ-ツラフ広場の恋人たち」の関係者たち:――このように、〈私〉
はあの絶対的な差異の知覚を、そしてそうした知覚をなし得る力を、《ある他のもの》から受け取った
のである。もはや何ひとつ見ることのできない、恐らくは果てのない荒れ地で、〈私〉は《ある他のも
の》に出逢い、触れる。今ここで、それをとらえるどんなすべもない。だが、そこには、〈私〉にとっ
ての始まりをしるす、〈私〉に決定的に先立つ差異の受容/触発があった。もし、〈私〉が、「私の内」
と「私の外」という二つの領域の差異を規定しようとするならば、この受容/触発の〈形〉を確定する
必要があるだろう。だが、この差異の常に確実な、あるいは不変の規定は、少なくとも〈私〉の内にお
いては不可能であるだろう。そして〈私〉の外においても。なぜなら、この絶対的な差異は、《ある他
のもの》との出逢い/触発がそこで誕生する、思考の境界線上から微かに離れたある〈ゼロ/不在〉の
場所で与えられる(すなわち触れられる)のだから。それは、その姿をかいま見ることさえできないあ
の荒れ地において、ある他者の誕生とともに、その都度やってくる一つの《訓練=試練》として与えら
れる/触れられるのだから。それがいつなのか、そしてどこなのか、〈私〉はそのことを知ることが決
してできないのだ。〈他者〉の予期できない到来とともに、それぞれの他者たちが突然旅立っていく。
彼らは一体どこへ行くのだろうか? もし、この黄昏の薄明の広場ではないのだとすれば?』 

『シネマ「灼熱のアデンの港で――《私、あるいは他者》の旅立ち」の関係者たち:――この果ての
ない荒れ地は、いつか同時に広場へと生まれ変わることだろう。街を引き裂くあの笑いと叫びとともに、
焼き払われた街の片隅で、爆破された家の残骸の傍らで、白熱するプラチナの上で焼かれ、溶解する肉
体、打ち砕かれる頭、切断される手足、そして流れ続ける血液の波間で、何度でも繰り返して表現する
ことを、絶えず試みることが、もしできるのならば、そしてそのことによって、この同じ街路の上で、
あのはるかな《砂漠=大地》の流れに沿って、再びあの荒れ地へと向かうのだとしても、たとえそうだ
としても、もし、この果てのない苦痛と喜びの中で、この力の渦の中で、永遠に投げ続けられる石が、
この同じ街路を、あのいつもの笑いと叫びとともに、かつて誰一人見ることもとらえることもできなか
った鮮やかな色彩のきらめきによって瞬時に塗り変えてしまうのならば……。』



――不意に若返った『独身者の装置』の背後から、一人のチェス・プレ-ヤ-が血塗れになってはい
出てきて、魅惑的な姿態でささやく。

 「触ってください。

       来るべき《超-訓練都市》のミュ-ジサ-カス展のために……。」



 『(ふと気づけば、いつしか、彼方へと延びていく舗道の向こう側から、呼びかける声が聞こえる。)
――たとえ〈この手〉にゼロ/不在の亀裂が深くうがたれようとも、お前がそれを見捨ててしまうこと
は決してないだろう。』
 
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